強引に変わり行く時代に思うこと。(2020年7月発行)

新型コロナウイルスの感染を防ぐために全国的に外出を控えるえようになってから、ビデオ会議システムやSNSアプリを活用した「オンライン飲み会」が、人気となっています。私がオリエンタルランド社を辞めてから(28歳まで東京ディズニーランドで勤務していました)四半世紀が経ちますが、当時の同級生とは今もなお交流があり、数年に1度、私が商談会で上京した折などに飲み会を企画してくれます。その仲間たちと先日「オンライン飲み会」を行いました。新型コロナウイルスは世界的に悪影響がものすごく出ていますが、「オンライン飲み会」のように、島根に居ながら東京の友人たちと飲み会ができるようになるなど、良い面もあることを感じました。さらに「オンライン飲み会」にはリアルな飲み会よりも優れている面があることに気づきました。同級生との飲み会は毎回20人ほどで行なわれていますが、飲んでいるうちに3人~4人のグループに分かれ、宴会が終わると「結局あの人とは話さなかったな」と思うことがります。その点、「オンライン飲み会」は違います。一人が話し出すとその人の顔が画面いっぱいに現れ、アップになった人の話をみんなが聞き、次の誰かが話し始めると今後はその人の顔が画面いっぱいに現れるという感じです。当然、全員が話せるように気遣う司会のような役割も要りますが、普段の大勢での飲み会よりも一人一人としっかり話せたという実感が持てます。オンラインで飲み会など、こんなことがなければ思いもつきませんでしたし、例え思いついても参加者は少なかったでしょう。この度のコロナ禍のように、強引な力で時代が動いて行くことがあるのだなと感じました。歴史上、人はずっと家で仕事をしていましたが16世紀頃から工場ができ、18世紀の「産業革命」以降は、大きな工場や職場へ通勤するのが当たり前になっています。しかしこの度のコロナ禍で、通勤は本当に必要なのか?という疑問が誰しもの脳裏によぎったのではないでしょうか。時間をかけて通勤し、複雑な人間関係の中に身を置きながら数時間拘束される、というものがすべての仕事で絶対に必要なのかを、時代が問いかけているように思います。学校教育も同じで、過疎化が進んでいる田舎ではバスに長時間乗って通学して授業を受けるわけですが、先生から学問を教わるだけであれば「オンライン授業」で良いのではないか。むしろ「オンライン授業」のほうが地理的な不利を受けることなく公平な環境で勉強できるのではないかとも思います。もちろん、顔を合わせての授業の良さもありますし、集団の中での活動・体験自体が学びであり、単純に学校がなくてもいいということにはならないのですが、勉強を教わることと、集団のなかに身を置いて人間関係を学ぶことを、分けて考えてもいいのではないかと感じます。弊社に目を向けてみますと、電話やメールは家でも受けられますが、農業や製造、そして商品発送には出勤が必要だと感じました。しかし、これまでずっとそうだからだったといって、それ以外方法がないと決めつけないで、考えたり、気付いたり、作りだしたりすることが必要だなと感じます。新型コロナ禍により生き方や働き方、学び方を問いかけられている突きつけられているいる、そんな気がするこの頃です。