難攻不落の山城(2020年5月発行)

前号(まめなか便りNo.180)に続き安来市を訪ね、『月山富田城』をご紹介します。前号は『月山富田城』と尼子氏、山中鹿介について、ざっくりとご紹介しました。本号は、歴史雑誌で“全国の山城第1位”に輝き、城マニアも一目置く富田城を、深く掘り下げてみたいと思います。富田城のことを聞くなら、この人!月山の麓にある『安来市立歴史資料館』に舟木 聡さんを訪ねました。富田城は、1185年頃標高197mの月山に築かれた山城で、現在は城跡が残ります。山陰の覇者と呼ばれた尼子氏が本拠を構え、170年にわたる尼子氏六代の盛衰の舞台となりました。


あけみ「現在は城跡のみ残る富田城ですが、“難攻不落”と呼ばれた当時の姿がこちらにあるジオラマで蘇りましたね。ジオラマを見ていると月山と富田城の様子が一目で分かり、『尼子の武将たちと一緒に城を守るぞ!』という気持ちになってきます(笑)。城跡しか残っていないのに、どうやって再現できたのですか?」

舟木さん「ジオラマは、江戸時代に描かれたとみられる絵図を基に、私たちが行なった発掘調査の結果と専門家の助言を参考に作りました。江戸時代の絵図から作ったので、最後の城主である堀尾忠氏公時代の、1600年頃の城と城下町の再現です。富田城が“難攻不落”と言われたのは尼子氏が城主だった1500年代の戦国時代で、その時の姿ではありません」

あけみ「私はお城というと、このジオラマのように立派な石垣に白壁、瓦屋根に鯱鉾のイメージを持っているのですが、尼子氏が城主だった戦国時代はどんな姿だったのですか?」

舟木さん「戦国時代の城は、戦うための実践的な城で、土壁が剥き出しになった掘立小屋がたくさん建っており、城全体が茶色の色調だったようです。大坂城や姫路城のように、日本の城が権力を誇示するような立派な姿になっていったのは1579年に織田信長が安土城を作ったあたりからで、尼子氏をはじめ武田信玄、上杉謙信、毛利元就が活躍していた時代には、石垣や白壁といったものは、まだありませんでした」

あけみ「富田城はなぜ、難攻不落といわれていたのですか?」

舟木さん「富田城には、周防の大内義隆や安芸の毛利元就など名だたる武将が攻城戦を挑みましたが、武力で攻め落とすことができませんでした。結局、毛利軍による巧みな兵糧攻めによって開城したのです。富田城が武力で落ちなかった理由は3つあります。1つ目は、地形です。月山は大変急峻な山で断崖絶壁が多く、馬はもちろん足を使っても麓から駆け上ることはむずかしかったのです。2つ目は、防御施設の巧みな配置です。曲輪などの防御施設が無数に配置され、登ろうとすると鉄砲の玉、矢、石があちこちから飛んできます。最盛期には月山全体に曲輪などが設けられ、山自体が地形を利用した要塞だったと思われます。3つ目は、位置です。月山は奥まった場所にありますが、本丸に登るととても良い眺めです。山陰道や安来の港が見え、さらに向こうの島根半島や日本海までも見えるので、周りの動向が手に取るようにわかります。港に舟が入ってきたらすぐにわかり、陸路から敵が入ってきても、すぐに対応ができたようです」

あけみ「富田城は江戸時代には立派な姿になっていたのに、どうして壊されてしまったのですか?」

舟木さん「1615年、江戸幕府が出した『一国一城令』により、出雲国の城は松江城のみ残し、あとの城は壊されました」

あけみ「同じ時期に、日本各地にあった素晴らしいお城もたくさん壊されたのですね。本当にもったいない!!」

舟木さん「城が壊されてしまったのは残念ですが、現在は発掘調査によっていろいろなことがわかってきています。出土品を当館に展示していますので、尼子氏、山中鹿介の面影を追いに、ぜひお越しいただければと思います」

月山富田城は城跡のみ残りますが、形がないからこそ面影にロマンを感じます。まさに「夏草や兵どもが夢の跡」です (あけみ)