出雲の手しごと 出西織(2022年1月発行)

職人の手仕事により生み出される、機能的で美しい“民藝品”。『民藝運動』の創設者である柳宗悦は、生活道具として使われていた民藝品の価値を見出し、“用の美”と称えました。1950年代には柳宗悦や河井寬次郎、バーナード・リーチなど、民藝運動の担い手が出雲を訪れ、その後の出雲地方の民藝に大きな影響を与えました。今でも『出西窯』や『湯町窯』などに出雲地方に根付いた民藝の精神を見ることができます。

今回は、民藝の流れを汲み手しごとの織物を作る『出西織 多々納工房』を訪ね、代表の多々納 朋美さんとお母さまの昌子さんにお話を伺いました。

あけみ「最近私は、手しごとで作られたものを見て、製品の背景を想像することに魅力を感じています。この場所で織物を始められたのは、どういうことからだったのですか?」

朋美さん「祖父・多々納 弘光(故人)は『出西窯』の陶工でした。

祖父は、戦時中、長崎の専門学校(今でいう大学)に在学していましたが、奇跡的に原爆を逃れて終戦を迎え、卒業と共に故郷である出雲へ帰ってきました。

祖父には、故郷で暮らしながら仲間と一緒にものづくりをして生きていきたいという理想があり、出雲の出西村は焼物の土が採れることから、仲間と共にこの地に『出西窯』を開きました。

祖父は、家族が身に着けるものや生活の中で使うものを妻に作って欲しいと考えており、その頃まだ婚約者であった私の祖母・桂子を、岡山県にある『倉敷本染手織研究所』に1年間行かせて、染めと織の基本を学ばせました。

研究所を卒業し祖父と結婚した祖母は、家族のものを作るだけでなく、ここに多々納工房を開き手織製品の商売を始めました。その頃、出西窯はまだ軌道に乗っておらず祖父の収入は不安定で、自分が織物で稼いで家族を養わねばと思ったと、後に祖母は話していました」

あけみ「当時、多々納工房ではどんな製品を作っていらっしゃったのですか?」

朋美さん「祖母は元々、事務仕事をしていましたが、ものづくりに向いていたようで、手が早く仕上がりも美しいことから本の装丁やテーブルクロスなどのたくさんの注文があったそうです。

その頃は、山桃の木の皮を使った草木染めで糸を染め、その糸で布を織っていたので、藍染めをする人や糸を巻く人、機を織る人など、たくさんの職人さんを雇っていました」

あけみ「私は、出西織といえば『藍染め』というイメージを持っていましたが、はじめは草木染めが主流だったのですね。いつ頃からこちらで藍染めをされるようになったのですか?」

朋美さん「元々、藍染めは紺屋さんで染めてもらっていました。昭和46年に“天然藍による絞り染め”の第一人者であった『片野元彦』先生が出雲を訪れられた折に、祖父が当時出雲にたくさんあった紺屋さんを何軒かご案内したのですが、片野先生が『出雲で正当な藍染めをする紺屋はほとんどなくなってしまった』とがっかりされたそうです。そして祖父に『君が正当な藍染め“正藍染め”をやりなさい』と言われたそうです。その時からこの工房では、糸を染めるのに天然藍の醗酵建てによる藍染めを始めました」

あけみ「お母さまの昌子さんは藍染めを長く続けていらっしゃいますが、手間のかかる正藍染めを続けるのは大変ではないですか?」

昌子さん「藍は生き物で藍染めは菌の力で染めることから、甕で藍を建てているときは付かず離れずで、常に状態を見ています。

藍建てを始めてから藍染め液ができるまで10日ほどかかり、それから染め始めますが、染め出してから失敗することも多く、ちゃんと発酵していたのに一夜にして腐敗しショックのあまり一日中、甕の傍で佇んでいたことが何度もあります。失敗の原因は雑菌の混入だったり気温の問題だったり様々ですが、今回はこれが原因!と特定しにくく、次からどこを改善したらよいのかがわかりにくいので、長くやっていてもむずかしいと感じています。

また、藍染めは浸けては絞って浸けては絞っての作業を1日5回ほど行ない、それを何日も繰り返すことにより染め色をつけていきます。たくさんの色が混じり合い様々な条件下で生まれる色なので、同じやり方で染めても、違うタイミングで染めたものに同じ色は存在しません。

同じ色に見えても微妙に赤みがあったり黒っぽかったりします」

あけみ「正藍染めはむずかしく手間もかかるのに、ずっと続けていらっしゃるのには、どんな理由があるのですか?」

昌子さん「化学染料を使うともう少し早く染まったり、たくさんの糸が染められたり、メリットも多いと思います。でも、うちでは創業者である母と『楽な方にいくと戻れなくなるので、そういうのはやめよう』という話をしており、これからも昔ながらの正藍染めを守りながら、手しごとのものを作り続けたいと思っています」