平田饂飩の復活と商家再生(2020年8月発行)

現在の出雲市平田町のあたりは、江戸時代に松江藩でもっとも栄えた商業地でした。綿花の栽培がさかんにおこなわれ、木綿から作った白い反物を仲買人が買い取り、北前船で大坂などに運んでいました。そんな、商売で繁栄する平田で人気の食べ物がありました。『平田饂飩』という手延べうどんで、平田には何軒ものうどん店があったようです。中でも、『盛麺堂』の原文吉という人が作る卵を練り込んだ平田饂飩はおいしいと評判で、やがて天皇家の御用品として認められたほどでした。そのうどんは明治に入ってからは京都、大阪、関東へも伝わり、最盛期にはたくさんの人を雇ってうどんを作っていたそうです。「コシとなめらかさは讃岐もの以上」と播州(兵庫県南西部)の素麺師が絶賛したとも伝えられています。そんな原文吉さんのうどんは、第二次世界大戦の混乱の中で姿を消し、やがて“幻のうどん”と呼ばれるようになりました。今回は、原文吉さんの平田饂飩を現代に蘇らせ提供されている出雲市平田町の『木綿街道』にある『文吉たまき』を訪ね、有限会社 玉木製麺 玉木 暢 社長にお話を伺いました。


あけみ「『文吉たまき』は今年1月にオープンされたばかりだとか。“幻のうどん”と言われる“原文吉さんの平田饂飩”を復刻し、『文吉うどん』として提供されていますが、復刻されたのはどのようなお気持ちからですか?」

玉木社長「弊社は山陰でうどん・そばの店を多店舗展開しており、創業者である祖父の代から“うどんのたまき”として皆様に親しんでいただいております。玉木家の祖先は平田の出身で、原文吉さんのうどんのことは祖父から話を聞いて知っていました。『あのうどんはおいしかった』と実際に召し上がったことのあるおばあさんたちからも噂を聞くこともあり、うどん店である弊社は、平田饂飩をどうしても蘇らせたいとの思いをずっと持っていました。縁があり、20年ほど前に文吉さんの子孫である原家の方、文吉うどんを知る有志の皆様から平田饂飩を作ってみないかとのお誘いをいただき、そこで文吉さんの名前にあやかり『文吉うどん』として作ることにしました」

あけみ「“幻のうどん”を現代に蘇らせることは夢のようなことである反面、実物が存在しないのでお手本がなく、むずかしいと思うのですが、どのようにして復刻されたのですか?」

玉木社長「幸運にも当時書かれたメモ書きのレシピが残されていたので、そのレシピどおり忠実に再現しました。実際に作ってみると大変喉越しの良いおいしいうどんができたので、“幻のうどん”の噂は本当だったと実感しました」


あけみ「こちらのお店は『木綿街道』にあり、レトロな雰囲気の中に新しさもあって、江戸から明治にかけて人気だった“饂飩”ととてもマッチしているように感じます。どのようなご縁でこの場所にお店を持たれたのですか?」

玉木社長「ここは以前、『石橋酒造』という200年以上続いた造り酒屋でしたが、2007年に廃業され建物だけが残っていました。弊社が『文吉うどん』を専門で提供するレストランを持ちたいと物件を探していたところ、ここを使いませんか?というお話をいただきました。見学してみるととても良い物件のように感じましたが、1000坪もある敷地はあまりに広く持て余してしまうことと、古民家移築の経験からリノベーションにとてもお金がかかることをよく知っていたので、ここに決めるのにはとても勇気が必要でした。そこで、レストランだけでなく、ホテル、カフェなどの複合商業施設という形で、この場所でお店を始めることにしました」


あけみ「『文吉たまき』は造り酒屋の趣を残しつつ、BGMにジャズが流れるお洒落な空間となっていますが、どのようなお料理を提供されていますか?」

玉木社長「弊社が多店舗展開している“うどんのたまき”はファミリーレストランのような存在なので、『文吉たまき』は若い世代や女性にも来ていただけるようなスタイリッシュな店にしたいと考えています。そこで、旬の地元食材を積極的に取り入れるなど素材にこだわりながら、カルボナーラやジェノベーゼなど創作うどんに力を入れたメニュー構成にしています。今後は、このロケーションを“ハレの日”にもご活用いただきたいと考えており、『花嫁センター 草谷』さんとブライダルの実現に向け話し合ったり、これまでにはなかったコース料理に取り組んだりしているところです。平田がかつての賑わいを取り戻すためのお手伝いができればと、夢を広げています」